江本昌子の「ぶちおきゃん!マチャコの思い出話」 第3回「小さな動物園」 江本昌子公式ホームページ
江本昌子の
著者:江本昌子
第3回 「小さな動物園」
毎週木曜日更新
(創刊記念 11月初旬まで毎週 月曜日・木曜日更新)
作者へのお便りをお待ちしてます。
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昔、家の近くに日本一小さな動物園があった。砂丘の上に造られた場所なので、夏の夕方など、可憐な月見草も咲いていたし、貝殻なども散乱していた。私が通っていた幼稚園の運動会もそこで行なわれていた。その広場が小学校三年の時生まれ変わった。
学校から帰ると宿題もしないで、私はすぐ近所の酒屋さんに急いで行った。そこの二人の女の子の子守りを頼まれていたからだ。
来る日も来る日も夕方のミュージックサイレンが鳴るまで、この動物園で過ごしていた。
二人を預かるときに子守賃30円をもらっていた。竹かごの乳母車に二人を乗せ、歩いて行っても5分とかからない近くにあった。
桜の咲く春、夏は街路樹のプラタナスのせみしぐれ、やがてなぜかホッとした秋。いつもお決まりのコースで役目を果たしていた。
入園料は幼児と児童は無料。まず入り口のマジックミラーを覗き、細くなったり太くなったりする姿をあきもせず見て遊ぶ。それからリスのいたアーチ型の門をくぐり、愛嬌たっぷりのお猿さんのところへ。かなりのお猿さんたちがいた。その並びに狐や狸もいたがその臭いがたまらなかったので長居はせず、さっさと通り抜けて孔雀のところへ。
動物の周囲に植えられてたアカシアの葉っぱをちぎっては、貴婦人を思わせる孔雀たちにあげていた。
あんなに小さな動物園だったのに、お猿の電車などもあった。オシドリなどの水鳥、亀、モルモットなどの小動物から、カンガルー、月の輪熊などもそろっていた。
なかでもまん中あたりに25メートルプールのような水槽があり、そこにアザラシがいた。
「オウッ!オウッ!」
その独特の泣き声は、動物園の外からも聞くことができた。いつも私は子守賃のなかからアザラシに「一皿十円」の鰯の餌を買っていた。まん丸い大きな可愛い目で見つめられると、つい胸がきゅーんとなって子守賃を全部使ってしまう日もあった。
鰯を放ると、水の中にいても のそのそと上がってきて、上手に口でキャッチ、つぶらな瞳をきょろきょろさせながら呑み込んでいた。二人の女の子は動物園に入れば、このアザラシに鰯を投げてやるのが一番の楽しみみたいで、乳母車の中できゃっきゃっ奇声をあげて喜んだ。
そのうち動物園が郊外の公園内に移転するとゆうことになった。すぐにではなかったが何か寂しい気持ちになった。しかし、女の子たちには、「月の輪熊もこの狭いオリの中より、大きなオリになるから今より幸せになるんだよ」と言い聞かせた。
その当時、流行性感冒が猛威を振るっていた。私も流感にかかってしまった。治るまで子守もお休み。そのまま四年生になった。
そして久しぶりの子守り。もうその時は乳母車は必要でなくなり、手をつないで動物園に向かった。
いつものように、まずマジックミラーで遊び、リスの門をくぐってお猿さんコーナーへ。そして臭い狐や狸の前はさっさと通り、孔雀にアカシアの葉をといつものように、、、、。
だけど何か変、アザラシの
「オウッ!オウッ!」
とゆう独特の泣き声が聞こえてこない。もう郊外の公園に移ったのかと思ったが水槽はある。
近づくとそこに看板が立っていた。
「ここにいたアザラシたちは、心ない者から石を食べさせられて死んでしまいました」
そこには呑み込んだ小石と小石が詰まっていた胃の切開写真もそえてあった。
なんてことを!十円けちって石を、、、、、
「投げてくれるのは鰯」
と人間を信じ、ほいほいと食べたであろうアザラシたち。わたしは悔しくて悔しくて二人の女の子の手を握りしめた。人間を信じて死んだアザラシたちが可哀想で、それ以後、私はぷっつり行かなくなった。
あれから四十年、彼女のお母さんの葬儀の日に、すっかり成人になった二人の女の子に何十年ぶりかに会った。もういい‘おばさん‘になっていた。そして毎日のように動物園に足を運んだことははっきり覚えていてくれた。
今はその地に市の会館が建ち、アザラシのいた水槽は記念樹の森になっている、ミュージックサイレンも鳴らなくなって久しい。
孔雀にやっていたアカシアも姿を消し、残っているのは大木になったプラタナスと「オウッ!オウッ!」と鳴くアザラシの鳴き声の思い出だけである