江本昌子の「ぶちおきゃん!マチャコの思い出話」 第24回「養女」 江本昌子公式ホームページ
江本昌子の
著者:江本昌子
第24回「養女」
毎週木曜日更新
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「今日から、おばちゃんとこの子供になりんしゃい」と、らーめん屋「つばめ」のおかみさんに言われた。幼稚園児の私は「毎日、おいしいらーめん食べられるよ」という殺し文句にひとつ返事で「はーい」と答えていた。
とんこつらーめん「つばめ」は、昭和30年ごろ、本場久留米から来られて、市内で初めて豚骨らーめんを始めた店である。今でこそ豚骨味は全国区になったけれども、醤油味の中華そばが主流だった中での開店はなかなか受け入れてもらえず「臭い」「なんかこれは」「くさっちょる」と小言が多く浸透するまで二年位かかって苦労したと大将が笑い話でよくしてた。
我が家はここのらーめんの大ファン。銭湯の帰りにらーめんを食べて帰るのがうちのフルコースと決まっていた。
カウンター越しに見える製造過程がおもしろくていつも食い入るようにみていたものだ。大きな釜にげん骨という豚骨がグツグツ音をたてて煮えたぎり、もうひとつの大釜では麺がゆでられている。この麺を取り分ける作業が職人技で、一本も残さず掬い取られるのがすごいと思って見ていた。コテコテの豚骨らーめんを大家族が騒々しく一滴の汁も残さずペロリと平らげるので「気持ちよかとお」と、これまたコテコテの九州弁で喜ばれていた。
ここの夫婦には子供がいらっしゃらなくて、次から次へとのれんをくぐって入ってくる兄弟の中から「ひとりちょうだい」と、父に言われる。
物事がわかる子ではやりにくいということで、末っ子の私に白羽の矢が刺さった。
夏休みのある日、リュックサックひとつ背負わされ養女に出された。わたしは意味がわからず
「おばちゃん、養女ってなんのこと?」
と、聞いて
も「ええの、ええの、そんなことどうでも
」と、はぐらかされ店の奥の居間でテレビを見ていた。卓袱台の上には駄菓子が山のように積まれている。
「さあ、食べんしゃい」と、らーめんをだされた。いつも小学校一年の兄と半分コだったので一杯丸ごと食べられるのがなんてやれうれしい。店が終わると一緒にお風呂に入りおじさんおばさんの晩御飯。おじさんのお膝に座り、次はおばさんにギューっと抱きしめられ、べたべったり。猫かわいがり最たるもの、ファアー大あくびでまぶたが重くなってきた。
「それじゃあ、眠たくなってきたからかえるね」
「あら、うちで寝てええんよ。布団に入りんしゃい」
「じゃけど、もう帰らんと父ちゃんが心配するけえ」
「ありゃ、そげんこつば言わんとうちに泊まっていかんとね?」
「うん、おうちかえる」
子供心にどんよりした空気に気がついた。
「じゃあ、帰るねおやすみなさい!!」と、大きな声で言い、送り出してくれた。おばちゃんの視線を背中に感じ振り向かずにいちもくさんに走って帰った。
「ただいまぁ!」
泣きそうな声を殺すようにわざと大きな声で言った。「おかえり〜」何事もなかったかのような返事が奥から聞こえる。山に積まれた靴だらけのあがりぐちで、ヘナヘナと座り込み、ホッとした安心感となにか悪いことしたような罪悪感でポロポロ涙があふれて止まらなかった
「つばめ」とは、その後も相変わらず行き来し、そんなこともあったっけ?と忘れてしまうほど時は過ぎていった。けれども昭和50年、突然繁盛していた店を閉め久留米に帰っていかれた。父と「つばめ」夫婦の間にどんな話があったのかは知らないけれども、今思うと、父の優柔不断な優しさがこのご夫婦の心を傷つけたのではないかとふと思ったりする。
でも父もわたしが「きっと帰ってきてしまうと思いますけど、それでもいいですか?」と言っていたのではないかと思える節もある。目から鼻へ抜ける利口な子ではなかったので大好きならーめんを食べたらさっさと帰ってくると考えていたのだろう。だってリュックサックには替えのパンツが一枚しか入ってなかったからである。
当時の豚骨らーめん「つばめ」の味を求めていろんな店へ行ってはみるが、なかなかあのまったりとしたコクのあるおいしいらーめんに出会うことができないのである。