江本昌子の「ぶちおきゃん!マチャコの思い出話」 第42回「にんにく」 江本昌子公式ホームページ

江本昌子の

著者:江本昌子

第42回「にんにく」

毎週木曜日更新

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余命一年と宣告された母が、長い闘病生活を終え我が家に帰ってきた。といってもベッドに横たわっているだけの毎日なのだが幼い私は母がそばに居てくれるだけで生活がうれしくてまぶれついていた。

父は母に何とか体力をつけてもらおうと、あの手この手の栄養食を作っていた。七輪の火を起こしにんにくのふさを丸ごと焼いて中のホクホクのところを食べさせるのだが、母は困ったなあ、といった顔でしぶしぶ口にしていた。どれどれ、わたしも‘食べたぁ〜い‘とせがみ食べてみたけどちっともおいしくない。そのうちお腹はくだるし、強烈な臭いのゲップでギブアップ。健康なわたしでさえ受け付けるには体力がいるというのに抵抗力の低い母には拷問に近いものがあったと思う。

唯一、おいしいおいしいと食べていたのがラーメン屋「つばめ」のトンコツラーメン。
母の麺だけ柔らかめに茹でてもらい一杯丸ごと食べられたと喜んでいた。
退院したと言っても病院とは縁が切れず、週に二度近くの病院の先生が来られて母に注射を打つ。その注射器の大きいこと。
太くて長くて針まで極太。母の白く、やせ細った腕に容赦なくブスッっと!!
と入り、痛々しい。
幼心に母がいじめられているかのように見えて「もうやめてほしい、、、、」と、思っていた。

父は母との思い出作りにと、いろんなところに家族を連れ出してくれた。春のお花見。夏の海水浴。紅葉の秋は紅葉狩り。それぞれに写真は残っているのだが、なぜだかわたしは、このときの光景をちっとも覚えていない。家族の一番前で、ちびっこのおかっぱ頭のわたしがそこにいるのにまるで思い出せない。せっかくの両親の想いが残念なことに通じなかったようである。

上のほうの姉たちには母が助からないことは告げられていたであろう。日々の取り組み方が違うもの。そんな大事な事、知らされてない私は、母は永遠にそばにいて、その当たり前の毎日がいつまでも続くと信じていたから、さほど真剣に過ごしていなかったのである。
余命一年と宣告された母は、体力も弱まってはきたが、結局家に帰ってきて三年生活することができた。拷問焼にんにくも注射も効き目があったのではあろうが、母にとっての一番の薬は、何より家族の愛情。笑顔。そして、愛する父への感謝の気持ちだったに違いないと思っている。
「お母ちゃん、ありがとう」
”孝行したいときに親はいず”
幼すぎる私には分からない言葉であった。

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