江本昌子の「ぶちおきゃん!マチャコの思い出話」 第72回「明子姉」 江本昌子公式ホームページ
江本昌子の
著者:江本昌子
第72回「明子姉」
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平成10年 私は婚家から飛び出て実家に戻った。店を経営してる明子姉には何て言おう、今帰ると店は忙しいし どうしよう もう少し暇になって帰ろう うんそうしよう、と実家を素通りして近くのうどん屋さんに入った。食欲もわかないのに無理して時間をかけて食べるうどんは 味わう余裕もなくて ひたすら早く時間が過ぎないか願っていた、周りの家族ずれの幸せそうな笑い声が胸に突き刺さり 耐えきれなくなって店を出た。「ただいまあ私ばあちゃんと喧嘩して出てきちゃった」「あっそう」姉は全てを察したかのように それ以上喋らせず「お腹空いたやろ あれ食べこれ食べ」とご馳走を並べる「どこの部屋でも使いなさい 子供らも来るよね わあい明日から賑やかになって楽しくなりそう乾杯」と喜び気弱になってる私を安心させる。それまで私はどっちかというと実家をよくは思っていなかった、ぬくぬくとした家庭から見る実家は朝から晩まで忙しい商売家 いい時もあれば悪い時もある 大きな店を構えてる分苦労も多く大変だなあとカヤの外から眺めていた
姉は私達親子を優しく迎えてくれ暫く居候してたが いつまでも甘えててはいけないと住まいを別にした。何とか生活も落ち着いて1年位たった時 明子姉がクモ膜下出血で倒れた。「頭が割れそうに痛い」と言ったきり動かない、慌てて救急車を呼び即入院、長い間集中治療室にいたが やっと目を開け2人部屋へ移った。でも中々意識は戻らず目は腐った魚のように白目と黒目の境に幕が張ってある「お正月は帰ってもいいですよ」と病院に言われたのに明子の旦那は疲れるのでそのまま入院させとくとつれない返事、娘と相談して我が家に連れて帰ることにした。道中、店に寄り「ここわかる?」と記憶の糸をたぐりよせようとしたけどチンプンカンプンでまだまだ糸のもつれはからまったままだった。リハビリが始まり事務員の磯村さんにその世話を頼んだ。ひと月ほどして「ママの意識が戻った」と言う、3段の箱を登って降りるというリハビリで「面倒くさいから磯村おまえがやれ」っていつもの明子節。やったーやっと戻ったあ、桜咲く春に退院した。この病気は10人中6人死に3人後遺症が残り1人が元に戻るという、運よくこの最後の1人となった明子姉は 拾った命と節せいすることも無く相変わらず酒タバコはバアンバン、生きかえったお化けの笑い話しにしていた。その2年後 今度は助からないといわれる病にかかった「あん時捨てた命 2年も生かせてもらって感謝 感謝」と強がって言う目には光るものがあった。うちの娘が夜付き添った時 モルヒネでもうろうとしている姉が「何するか帰れ おまえの顔なんか見とうもない帰れ!」と罵倒し娘を泣かした、正気に戻った姉が「あんなに優しい拡子に そんなこと言うなんて 悲しい思いさせちゃって ごめんね」と今度は私を泣かす。明子姉は病いに勝てず57年の人生の幕を閉じた。私が実家に帰り 落ち着いたのを見はからったように倒れ それからあっという間に明子を送った。何かこういう方程式が出来上がっていたのかなあ、そうなることがわかって私は実家に引き戻されたのかなあと不思議な気持ちになる。お正月連れて帰ったボウズ頭に縫い目のある明子姉の似顔絵は今でも大事にとってある。